値上げのニュースが流れるたび、俺は反射的に身構えていた。「またか」と。
この感覚は、自分で考えて辿り着いたものだと思っていた。
違った。
結論を先に言う。俺はもう「現金だけが安全」だとは思っていない。
そう思わなくなったのは、損得を計算したからじゃない。あの反射がどこから来たのかに気づいたからだ。
なぜ俺は「現金が安全」というデフレ時代の感覚を捨てたのか
現金は減らない。数字の上では、たしかに減らない。
問題は、その数字で買えるものが減っていることだ。2026年6月の消費者物価指数は、前年同月比で総合1.7%の上昇だった(総務省統計局、2026年7月24日公表)。
仮に年2%のペースが10年続いたとする。計算は「100万円 ÷ 1.02の10乗」で、購買力はおよそ82万円まで落ちる。18万円が、誰にも盗まれないまま消える。銀行口座の残高は1円も動かないのに、だ。
断っておくと、これは「物価が年2%で10年続き、預金の利息はゼロ」と置いた場合の計算だ。実際にそうなるとは限らない。ただ、現金を持つことが「何も起きない選択」ではないことは、この式が示している。
値上げを嫌う反射は、俺が身につけたものじゃない
物心ついてから社会人になるまで、俺は「値段が上がっていく世界」を実感として持ったことがない。
もちろん個別に値上がりしたものはある。電気代も社会保険料も上がった。ただ全体の空気として、値下げ競争のほうが強かった。牛丼は安くなり続けたし、パソコンも服も、去年より安くなるのが当たり前だった。給料が上がらないことに文句を言いつつ、「まあ物価も上がらないし」で納得していた。
この環境で30年過ごせば、価値観は固まる。値上げは悪。価格転嫁は企業のわがまま。現金は安全。
内閣府はこの30年をこう表現している。
「長引くデフレによるコスト削減型経済の下、投資や賃上げをこれまで抑制させてきた」
— 内閣府「令和6年度年次経済財政報告」第1章第2節
企業がコストを削り、賃金を抑え、投資をしなかった。俺たち家計の側も、それに合わせて財布を締めた。全員で縮む練習を30年やったわけだ。
その練習の成果が、値上げのニュースへの「またか」だ。判断じゃない。癖だ。
縮んでいたのは世界じゃなく、日本だけだった
この癖を「仕方ないこと」だと思えていたのは、俺が比較対象を持っていなかったからだ。
連合がOECD統計から作った国際比較がある。1991年を100として、2021年の名目賃金指数を並べるとこうなる。
| 国 | 名目賃金指数(1991年=100) |
|---|---|
| 韓国 | 約500 |
| 米国・豪州・英国・スウェーデン | 260前後 |
| フランス・ドイツ・イタリア | 200前後 |
| 日本 | 101.4 |
30年で、韓国は5倍になった。欧米は2倍から2.6倍。日本は1.014倍だ。
実額でも同じことが起きている。日本の平均年間賃金は4.1万ドルで、OECD34カ国中24位。1991年の時点では、比較した9カ国のうち5番目だった。今はイタリアと並んで最下位にいる(連合・賃金レポート2022 サマリー版、OECD統計から作成)。
物価も同じ構図だ。他の国は物価も賃金も上がった。日本だけ、両方が止まった。
ここで引っかかってほしい。俺は引っかかった。自由に価格を決められるはずの市場経済の国で、30年間ずっと値段も給料も動かないなんてことが、自然に起こるだろうか。
答えは持っていない。経済学者でも意見が割れる領域だ。ただ一つ言えるのは、「値上げは悪」「据え置きこそ誠実」という空気は、市場が勝手に生んだものじゃないということだ。全員がそう信じ、そう振る舞い、その通りの結果になった。刷り込みは俺個人の癖であると同時に、社会全体の合意でもあった。
このデータは2021年時点のものだ。だから今も同じとは限らない。むしろ春闘が3年続けて5%超で決着している今は、この30年で初めて指数が動き始めた局面にあたる。俺が「前提が変わった」と言っているのは、この意味だ。
俺は「値上げ」を一種類だと思っていた
刷り込みは、もう一つの形でも出ていた。値上げのニュースを、俺は全部同じ箱に入れて処理していた。
でも値上げには2種類ある。原材料やエネルギー、円安でコストが上がるコストプッシュ型は、企業も家計も苦しい。景気が悪いまま物価だけ上がる。需要が増えて上がるディマンドプル型は、企業の利益も賃金も伸びる。まったく逆の現象に、俺は同じ顔をしていた。
日銀はこの2つを分けて呼んでいる。輸入物価由来を「第1の力」、賃金主導を「第2の力」と。
「『第2の力』とは、景気が改善するもとで、労働需給の引き締まり等を背景に、賃金と物価が相互に連関しながら伸び率を高めていく力、つまり賃金と物価の好循環を指します」
— 日本銀行総裁 植田和男「賃金と物価の好循環と今後の金融政策運営」(2024年5月8日)
中央銀行が呼び分けているものを、俺は1つにまとめて眉をひそめていた。これも癖だ。
じゃあ今の日本はどっちなのか。
| 項目 | 直近の数字 | 時点 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 消費者物価(総合) | +1.7% | 2026年6月 | 総務省統計局 |
| 輸入物価(円ベース) | +29.7% | 2026年6月 | 日本銀行 企業物価指数 |
| 国内企業物価 | +7.1% | 2026年6月 | 日本銀行 企業物価指数 |
| 実質賃金 | +1.4%(5か月連続プラス) | 2026年5月 | 厚生労働省 毎月勤労統計 |
| 春闘賃上げ率 | +5.01%(定昇込み・連合集計) | 2026年最終集計 | 連合 |
| 日銀の政策金利 | 1.00% | 2026年6月〜 | 日本銀行 |
輸入物価が+29.7%、国内企業物価が+7.1%。消費者物価の+1.7%より、川上のほうがはるかに大きく上がっている。コスト圧力が外から来ている構図は、この数字ではっきりしている。
ただ、実質賃金は5か月連続でプラスだ。春闘も3年続けて5%超で決着している。
正確に書いておく。春闘の5.01%は連合加盟組合の集計で、定期昇給分を含んだ数字だ。全労働者の賃金が5%上がったわけじゃないし、組合のない職場は入っていない。それでも実質賃金が5か月続けてプラスなのは事実だ。
「賃金が物価に追いついた」と言い切る材料はない。「追いつき始めた兆しがある」——数字が支えてくれるのは、ここまでだ。
デフレ30年は事故じゃなく、選択の積み重ねだった
ここが一番言いたいところだ。
日本の30年デフレを「なんとなくそうなった」と説明する人がいる。俺はそれを信じない。政策の年表を並べると、少なくとも人の判断が積み重なっているのは見える。
- 1989年4月:消費税を導入(3%)
- 1997年4月:5%へ引き上げ
- 1999年2月:ゼロ金利政策を導入(2000年8月に解除)
- 2001年3月:量的緩和を導入(2006年3月に解除)
- 2013年4月:異次元緩和を導入
- 2014年4月:8%へ引き上げ
- 2016年1月:マイナス金利を導入
- 2019年10月:10%へ引き上げ
- 2024年3月:マイナス金利とYCCを終了
並べてみて思うのは、この30年、誰も手をこまねいていたわけじゃないということだ。上げたり、下げたり、踏んだり、緩めたり。ずっと何かをやっている。
誰が悪かったという話をするつもりはない。当時それぞれに理由があったはずだし、俺はその判断を裁ける立場にいない。
だからこそ、ここは正直に線を引いておきたい。この年表だけで「デフレの原因は政策だ」と結論づけることはできない。バブル崩壊による資産価格の下落、不良債権処理の長期化、人口減少と高齢化、リーマンショック——デフレの背景として挙げられる要因は他にいくつもある。経済学者の間でも決着していない論点だ。年表を並べて因果を断定するのは、俺のやりたいことじゃない。
そのうえで、年表から言えることが一つある。緩和でアクセルを踏み、増税でブレーキを踏む。この組み合わせが繰り返されたのは事実だ。 内閣府自身、2014年の増税時には1997年を上回る駆け込み需要とその反動があったと分析している(平成26年度年次経済財政報告)。少なくとも、デフレから抜け出しにくい環境を作った可能性はある。
つまりデフレは、少なくとも純粋な天災ではなかった。人の判断が関わっている以上、判断が変われば景色も変わりうる。
2026年6月、日銀の政策金利は1.00%になった。1995年以来31年ぶりの水準だ。
金利の水準だけで「インフレの時代が定着した」と言うつもりはない。それを判断するには物価も賃金も需要も、持続性を見ないと分からない。ただ、俺が社会に出てから一度も見たことのない金利の世界に今いることは確かだ。前提が動いた合図としては、十分すぎる。
「またデフレに戻るだけだ」という反論について
ここまで読んで、こう思った人がいるはずだ。「賃上げなんて続かない。どうせまたデフレに戻る」と。
正直に言う。その可能性はある。俺には未来が読めない。
でも、この反論には穴がある。デフレに戻るかどうかを当てられないなら、当てにいく戦略そのものが間違っているということだ。
「デフレに戻ると予想して現金で待つ」も、「インフレが続くと予想して全部突っ込む」も、同じ予想ゲームだ。俺はどちらもやらない。
俺がやるのは、どちらに転んでも生き残る配分にしておくことだけだ。生活に必要な額を超えて現金を持ち続けるのは、「これからも物価はさほど上がらない」に賭けているのと変わらない。安全に見えて、これも片張りなんだ。
癖に気づいた俺が、実際に変えたこと
じゃあ何をしたか。先に言っておくと、給料を上げに行ってはいない。
会社に賃上げを要求する、転職して年収を上げる——正論だし、できる人はやったほうがいい。ただ俺は放置系だ。自分でコントロールできない変数に賭けるやり方を選ばない。俺がやったのは、無駄な支出を削って、浮いた分を投信と個別株に回すこと。それだけだ。
ここで自分に突っ込みを入れておく。支出を削るという行動は、内閣府が「コスト削減型経済」と呼んだ企業の振る舞いと、形はまったく同じじゃないか。デフレマインドを捨てろと言いながら、やってることは節約か、と。
違いは一箇所だけある。出口だ。
浮かせた1万円を銀行口座に積み上げれば、それはデフレ時代の縮み志向そのものになる。同じ1万円を資産に換えれば、インフレへの対応になる。行動は同じ「節約」でも、置き場所で意味が正反対になる。問題は節約じゃなかった。浮かせた金の行き先だった。
2026年8月から、オルカンの積立を月3万円から4万円に上げる。給料が増えたからじゃない。支出を見直して、動かせる金を1万円作ったからだ。動かせる金から先に育てる。俺の順番はこれで変わっていない。
俺の金の置き場所
具体的に、俺がどうしているかを出す。
- NISAつみたて枠:オルカンを月3万円(2025年から)。2026年8月から月4万円に増額する
- NISA成長枠:S&P500
- 特定口座:個別株9銘柄とVYM
- 現金:生活防衛資金として確保。総額で12.7か月分
現金を捨てたわけじゃない。むしろ12か月分以上ある。捨てたのは「現金なら安心だ」という感覚のほうだ。
現金の役割を、俺はこう整理し直した。現金は、名目の元本と使いたい時に使える流動性を守る資産だ。ただし長期で購買力を守る資産ではない。この2つを混ぜて「安全」と呼んでいたのが、俺の間違いだった。
だから生活防衛資金と、暴落時に狼狽売りしないための余裕分は現金で持つ。そこから先の、当面使う予定のない金まで現金で置いておく理由はない。
対比するとこうなる。100万円を10年間、普通預金に置けば、年2%のインフレが続いた場合の購買力は約82万円相当になる。同じ100万円をオルカンに置けば、増えるかもしれないし減るかもしれない。前者は目減りの方向がほぼ決まっていて、後者は分からない。俺は分からないほうを選ぶ。
こういう人は現金を厚く持っていい
俺の結論を全員に当てはめる気はない。
- 3年以内に使う予定がある金(住宅頭金、教育費、車の買い替え)は現金でいい。値動きに晒す期間が短すぎる
- 収入が不安定な人は生活防衛資金を厚めに。フリーランスや歩合給なら12か月分でも足りないことがある
- 含み損で夜眠れなくなる人は、まず金額を小さくして慣らす。メンタルが持たない配分は、どんなに理論上正しくても続かない
続かない戦略は、正しくても意味がない。
「今から買うのは高値掴みじゃないか」という不安
わかる。ドル円は160円台(2026年7月31日20時時点で160.07円)で、株価も高い。今から入るのは怖い。
ただ、この記事で言いたいのは「いつ買うか」じゃない。「置いたままにするか」だ。タイミングを気にして現金のまま持ち続ければ、その間も購買力は削られていく。
買うタイミングが怖いなら、一括で入れなければいい。月3万円ずつ積むやり方は、買う時点をばらけさせる方法だ。損を防ぐ仕組みじゃない。下げ相場なら普通に含み損になる。買う日を一点に賭けずに済む、それだけの話だ。
俺にとっては、それで十分だった。為替そのものの損得は円安163円は高値掴みかで損益分岐レートまで計算してあるので、そっちが気になるなら読んでほしい。
今日やること
- 自分の資産のうち、現金が何%かを計算する(比率を把握していない人が一番危ない)
- その現金の中で、「3年以内に使う予定がある分」と「なんとなく置いてある分」を分ける
- なんとなく置いてある分について、10年後の購買力を計算してみる(年2%が続いた場合は約8割)
- サブスクや保険など、削れる固定費を1つだけ探す。給料を上げるより、こっちのほうが自分で決められる
- 積立額を今すぐ変える必要はない。まず比率を知るところまででいい
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まとめ
日本の30年デフレは、少なくとも純粋な事故ではなかった。原因を一つに絞れるほど単純でもないが、人の判断が積み重なった結果ではある。そしてその時代に最適化された感覚だけが、前提の変わった今も俺たちの中に残っている。
この30年、韓国の賃金は5倍になり、欧米は2倍を超えた。日本だけが1.014倍だった。それを「日本らしい安定」と呼ぶこともできる。俺には、止まっていただけに見える。
俺はインフレを歓迎しているんじゃない。成長する経済を歓迎したいだけだ。
そのうえで、君に言っておきたいことがある。デフレしか知らない世代にとって、値上げに身構えるのは自然な反応だ。責められることじゃない。俺だってそうだった。生まれてからずっとそういう世界だったんだから、そう反応するように育つのは当たり前だ。
ただ、自然だったことと、これからも正しいことは違う。
現金が安全だという感覚は、判断じゃない。癖だ。
※本記事は個人の見解であり、特定の金融商品の購入を推奨するものではありません。投資判断は自己責任でお願いします。
※記載のデータは2026年7月31日時点で確認できたものです。為替レートは変動が速く、本文中のドル円160.07円は2026年7月31日20時時点の水準です。物価・賃金の統計値は各公表時点(消費者物価は2026年6月分、毎月勤労統計は2026年5月分)のものであり、最新値は各出典元で確認してください。


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